Mag-log in次の瞬間、頬に衝撃が走った。
「口答えするな!!」
視界が揺れ、体が傾く。
床へ倒れ込んだ拍子に、テーブルの脚へ肩をぶつけた。
鈍い痛みが走る。
けれど俊哉は、そんなこと気にも留めなかった。
「お前さ、最近調子乗ってるよな?」
「誰のおかげで生活できてると思ってんだよ」
怒鳴り声が、耳の奥で反響する。
昔は、こんな人じゃなかった。
少なくとも、ひかるはそう信じていた。
仕事で失敗して落ち込んでいた夜、
「お前がいてくれるだけでいい」 そう言ってくれた男だった。雨の日、傘を差しながら、
「風邪引くなよ」 と肩を抱いてくれた人だった。でも。
その優しさは、いつの間にか消えていた。
倒れかけたひかるを見て、玲奈が小さく息を吐いた。
「ごめんなさいね……」
その声音は申し訳なさそうなのに、
目だけは少しも謝っていなかった。「婚約者がいるって、知ってたんだけど……」
意味ありげに俊哉を見上げ、玲奈は続ける。
「でも……運命の人に出会ってしまったの」
潤んだ目でそう言う玲奈を見て、俊哉は優しく肩を抱き寄せた。
さっきまで怒鳴っていた男とは思えないほど甘い顔だった。
「玲奈……お前は本当にかわいいな」
その光景を見た瞬間、
胸の奥で何かが崩れ落ちた。ああ。
もう、終わっているんだ。
自分は最初から負けていたのだと、ようやく理解した。
玲奈は、そんなひかるの表情を見ていた。
そして心の中で思う。
(この人、まだ俊哉を愛してるのね)
それが分かったからこそ、玲奈は安心した。
同時に、少しだけ苛立った。
(だったら、もっと惨めになればいい)
そして俊哉は、冷え切った目でひかるを見る。
「お前の部屋は、玲奈に譲れ」
「さっさと荷物を運び出せ」
腕を強く引かれ、体がよろめく。
骨が軋むほど痛い。
「私に、どこへ……」
かすれた声で抗議しようとすると、
「家政婦は物置に決まってるだろ!!」
怒鳴り声と同時に、再び小突かれた。
ひかるは何も言えなかった。
言い返したところで、また殴られるだけだと知っていたから。
床に倒れたひかるは、ゆっくり立ち上がる。
寝室へ向かう足取りは、自分のものではないみたいに重かった。
部屋へ入ると、そこにはまだ、自分の匂いが残っていた。
俊哉と並んで眠ったベッド。
休日に映画を観た夜。
熱を出した俊哉を看病した夜。 将来の話をした夜。全部、この部屋だった。
なのに今は、
他人の女へ明け渡す場所になってしまった。クローゼットを開ける。
けれど、自分の荷物は驚くほど少なかった。
数枚の洋服。
洗面道具。 古びたポーチ。それだけ。
三年間一緒に暮らして、
自分にはこれしか残っていないのかと思うと、 涙が出そうになった。リビングから、笑い声が聞こえる。
俊哉と玲奈だった。
まるで、最初から自分など存在しなかったみたいに。
ひかるは静かに荷物を抱え、
一階奥の、物置代わりに使われている小さな部屋へ向かった。ドアを開けた瞬間、黴臭い空気が鼻を刺す。
窓は小さく、薄暗い。
段ボール箱と古い家具が隅に積まれていた。
布団も薄い。
冬の冷気が、床からじわじわ伝わってくる。
ベッドに座り、壁を見つめる。
ここは、私の家だったはずなのに。
――でも、もう違う。
私は、ここにいてはいけない存在になったのだ。
黴臭く、埃の舞う部屋。
冷たい布団に身を潜めたひかるは、
俊哉と出会ったころからの記憶が、 走馬灯のように浮かび上がってくるのを止めることができなかった。都内・高級レジデンス最上階。 夜の闇に溶け込むような静寂の中、雪城沙羅は一人、ワイングラスを傾けていた。 窓の外には宝石を散りばめたような夜景が広がっている。 だが、彼女の視線はそこにはない。 テーブルに置かれたタブレット。 そこに表示されているのは――ある報告書だった。 沙羅はゆっくりとページをスクロールした。 やがて、その唇がわずかに弧を描く。「……そう」 小さく呟く。「気づいたのね、優」 画面に記されているのは、たった一文。 『FJにて、藤崎優が“一条蘭の過去映像”を発見』 グラスの中で赤い液体が揺れる。 まるで血のように。「ふふ……」 低い笑いが、静かな部屋に落ちた。「やっぱり、気づくわよね」 久遠ひかるを初めて見たとき。 沙羅の胸の奥を走った、あの不快な感覚。 理由など、考えるまでもなかった。 立ち姿。 呼吸。 視線。 舞台を支配する、あの沈黙。 感情を叫ばないのに、観る者の心を奪っていく。 あまりにも似ていた。 まるで、遠い昔に葬り去ったはずの記憶が、突然目の前に立ち上がったようだった。 ―― 一条蘭。 沙羅がまだ駆け出しだった頃。 芸能界には、誰もが認める女王がいた。 自分より先に称賛され、自分より先に注目され、自分より先に頂点に立っていた女。 何をしても蘭には敵わない。 そう感じた瞬間が、何度もあった。 あの女がいる限り、自分は永遠に二番手なのではないか。 その恐怖が、いつしか憎しみに変わった。 だから――消した。 そして、ようやく自分の前から蘭の姿は消えた。 それなのに。 今度は、その女を思わせる女優が現れた。「せっかく息の根を止めてやったのに。とても似ているのよ、あの女に……気に入らない」 その声には、温度がなかった。 そこにあるのは憎悪だけではない。 もっと歪んだものだった。 蘭に勝ちたかった。 蘭を超えたかった。 そして今、ひかるにも同じ感情を抱いている。 似ている。 だからこそ、許せない。 沙羅は自分でも気づかないほど深い場所で、ひかるを一条蘭と重ねていた。 ―――似ている。 沙羅がひかるをひくむには、ただ、それだけで十分だった。 コンコン。 背後でドアがノックされる。「入って」 現れたのは、黒川彰人だった。 相変わらず隙のな
深夜のオフィスは静まり返っていた。 藤崎優は一人、デスクの前に座っていたが、目の前の書類にはほとんど視線を落としていなかった。 考えているのは、別のことだ。 久遠ひかる誘拐未遂。 スポンサー撤退。 黒川彰人の存在。 そして――雪城沙羅。 ひかるの母・美月から聞かされた、一条蘭という名前。 過去の襲撃事件。 そこに絡む沙羅の影。 そして今、ひかるの身に起きていること。 点だったものが、ゆっくりと線になり始めている。 だが、まだ何かが足りない。 決定的な“核”。 優は椅子の背にもたれ、目を閉じた。 ひかるを襲った連中。 スポンサーを次々と動かした黒川。 沙羅がひかるを敵視する理由。 そして、美月が語った過去。 すべてが繋がっているように思える。 それでも、確信するには何かが足りなかった。 そのときだった。 コンコン、と控えめなノック。「社長、まだお帰りではなかったのですね」 東堂だった。「……どうした」「資料を整理していたところ、気になるものが出てきまして」 東堂が差し出したのは、一枚の古いDVDだった。 ラベルにはこう書かれている。 『舞台 緋桜 —主演:一条蘭—』 優の眉がわずかに動く。「一条蘭……」 その名前は、知っている。 いや――芸能に関わる者なら、誰でも知っている。 伝説の女優。 突然姿を消した女。 そして。 久遠ひかるの母。「なぜこれが?」「倉庫に保管されていたものです。おそらく資料用かと」 優はしばらく無言で見つめたあと、静かに言った。「再生してくれ」 会議室の照明が落とされる。 スクリーンに、古い映像特有の粒子が浮かび上がる。 やがて――舞台が現れた。 暗転。 静寂。 次の瞬間。 スポットライトの中に、一人の女が立っていた。 優の呼吸が、止まる。 美しい。 そんな単純な言葉では足りない。 そこに立っているだけで、空気が変わる。 観客の視線が吸い寄せられていくのが、映像越しでもわかる。 セリフはまだない。 それなのに――支配される。 優は無意識に身を乗り出していた。 この女は、何なのだ。 何もしていない。 ただ立っているだけ。 なのに、目が離せない。「……なんだ、この存在感は」 優が思わず呟く。 東堂も小さく頷いた。「記録で
そのころ。 久遠家の重厚な門の内側は、外界とはまるで別の時間が流れているかのように静まり返っていた。 広い庭を渡る風の音だけが、かすかに耳に届く。 リビングの柔らかな照明の下、ひかるは大きなソファに腰を下ろしていた。 だが、その姿はいつもの凛とした女優のものではない。 背中は小さく丸まり、指先は膝の上で力なく重なっている。 まだ恐怖が身体の奥に残っているのだろう。 時折、思い出したように肩が震えた。 目を閉じれば、あの暗い路地が蘇る。 背後から伸びてきた手。 口を塞いだ布。 息苦しさ。 逃げようとしても動かない身体。 そして、車の中に引きずり込まれた瞬間に感じた、冷たい絶望。 もし、あの黒いスーツの男たちが来なかったら。 もし、あのまま連れ去られていたら。 その先に何が待っていたのか……考えるだけで、身体の芯が冷たくなる。 その背中を、母の美月が優しく撫でていた。 一定のリズムで、まるで幼い頃にそうしていたように。「ひかるまで狙うなんて……」 低く漏れたその声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。 普段の美月は穏やかで、どこか達観した空気を纏っている。 けれど今、その瞳の奥では明らかな炎が燃えていた。 娘に触れた者を決して許さない。 そんな母の本能が、静かに牙を剥いている。 美月はひかるの背中を撫でながら、胸の奥で過去を思い出していた。 かつて、自分も同じだった。 一条蘭という名前で、芸能界の頂点に立っていた頃。 誰もが自分を見ていた。 女優として、まだ上へ行けると信じていた。 それなのに――。 ある夜、突然襲われた。 顔を傷つけられ、女優として致命的な傷を負わされ、積み上げてきたものをすべて奪われた。 あれは事故ではない。 偶然でもない。 誰かが、自分を舞台から引きずり下ろすために仕組んだものだった。 そして、その背後にいた悪意を、美月は今でも忘れていない。 雪城沙羅。 そして、その沙羅を支えた黒川彰人。 あの二人の存在を知ったとき、美月はようやく理解した。 自分の人生を壊した闇が、今度は娘に手を伸ばしている。 ……許せるはずがない。 自分の顔を奪ったことだけなら、耐えられた。 女優としての人生を奪われたことも、長い時間をかけて受け入れてきた。 けれど――娘は違う。 ひかる
数十分前。 夜の静寂を切り裂くように、スマートフォンが震えた。 藤崎優は資料に目を落としていた。 だが、画面に表示された番号を見た瞬間、胸騒ぎが走った。 警備に当たらせていた人物からの連絡だった。 こんな時間に、わざわざ連絡をしてくる。 それだけで、嫌な予感がした。 通話ボタンを押す。「どうした」 返ってきた声は、明らかに切迫していた。「久遠ひかるが襲われました。現在、病院に運ばれました」 一瞬、意味を理解できなかった。 頭が、その言葉を拒絶した。 ——ひかるが? 襲われた? その二つの言葉が、頭の中で繰り返される。 次の瞬間——血の気が引いた。 背筋を冷たいものが走り、心臓を直接掴まれたような感覚に襲われる。 さっきまで普通に呼吸していたはずなのに、息ができない。「……どこの病院だ」 声を絞り出す。 病院名を確認した途端、優は椅子を蹴るように立ち上がっていた。 上着を掴む。 何かを考える余裕などなかった。 周囲の視線も、机の上の資料も、すべて視界から消えていた。 ただ一つ。 ひかる―――。(無事でいてくれ……!) それだけだった。 車に飛び乗り、エンジンをかける。 ハンドルを握る手がわずかに震えていた。 自分でも驚くほどだった。 これまで、どんな危機でも冷静に状況を判断してきた。 感情に流されれば、判断を誤る。 それを知っていた。 だが今は違う。 ひかるが襲われた。 その事実だけで、理性の奥に押し込めていた恐怖が、一気に噴き出していた。 赤信号もクラクションも意識の外に追いやられる。 頭の中にあるのは一つだけ。 ——間に合え!! 病院に着くと、ほとんど車を放り出すように降り、自動ドアをくぐる。 消毒液の匂いが鼻を刺した。 その瞬間、優の脳裏に嫌な想像が浮かぶ。 ベッドに横たわるひかる。 顔を歪め、痛みに耐えているひかる。 もしかしたら、意識を失っているかもしれない。 その想像を振り払うように、受付へ詰め寄った。「久遠ひかるは!?」 受付の職員は驚いたように優を見た。 端末を確認する。 数秒。 その数秒が、異様に長く感じられた。 やがて職員が首を傾げた。「……そのようなお名前の患者様は、いらっしゃいません」「搬送記録も?」「ありません」 優の思考が止
それは、あまりにも突然だった。 仕事を終えた頃には、街はすでに夜の色に染まっていた。 ネオンの光が濡れたアスファルトに滲み、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。 ひかるはコートの襟を軽く合わせながら、駅へと続く近道の路地に足を踏み入れた。 本来なら、通るべきではない道だった。 警護の人間も見当たらない。 人通りは少なく、街灯もまばらだった。 分かっていた。 優からも、夜は一人で出歩かないように言われていた。 それでも今日は疲れていた。 ほんの数分でも早く帰りたい。 ただ、それだけだった。 コツ、コツ、と自分のヒールの音だけが響く。 その音が、妙に大きく聞こえた。 ——そのときだった。 背中に、じっとりと張り付くような気配を感じた。 ひかるの足が止まりかける。 誰かいる。 逃げなきゃ―――そう思った瞬間、背筋を冷たいものが走った。「——誰?」 振り返るより早く、腕を掴まれた。 強い力だった。「きゃっ……!」 身体が一気に引き寄せられる。 口を塞がれる。 湿った布の感触。 そして鼻を突く、甘ったるい薬品の匂い。(まずい……!) 頭の中で警報が鳴り響いた。 息を吸ってはいけない。 そう直感した。 咄嗟に息を止める。 だが、恐怖で身体が震えていた。 心臓が暴れ、耳の奥で鼓動が爆発する。(早く逃げなきゃ!) 必死にもがく。 腕を振る。 肘を打ちつける。 かかとで相手の足を踏みつけた。「っ、この女……!」 低い怒声。 それでも拘束は緩まない。 むしろ、腕に食い込む指がさらに強くなる。 痛い。 怖い。 それでも声を出せない。 叫べば助かる。 そんな当たり前のことさえ、この瞬間にはできなかった。 そのとき、背後からもう一人の男が現れた。「早くしろ。車を回してる」 その声を聞いた瞬間、ひかるの全身から血の気が引いた。 一人ではない。 最初から複数だった。 偶然でもない。 待ち伏せされていた。 黒いワゴンが、無音のまま路地の奥へ滑り込んでくる。 ヘッドライトすらつけていない。 ——計画的だ。 そう理解した瞬間、恐怖が一段深くなった。 これは、ただの暴漢ではない。 自分を狙って、準備していた。 腕をねじ上げられ、引きずられる。 靴先がアスファルトを擦る。(
マネージャーの表情を見た瞬間、ひかるはただ事ではないと悟った。「……どうしたんですか?」 控室の空気が妙に静かだった。 さっきまで聞こえていたスタッフの声も、どこか遠い。 マネージャーは一度口を開き、すぐに閉じる。 そのわずかな仕草だけで、ひかるの胸に嫌な予感が広がっていった。 ——何かあった。 しかも、自分に関係することだ。 マネージャーは覚悟を決めたように言った。「ドラマ……『愛していると、言わせない』が、一時休止になったわ」 言葉の意味が、すぐには頭に入ってこない。「……休止?」「スポンサーが次々に撤退したの。制作側も、これ以上は続けられないって」 ひかるの手から、台本が滑り落ちた。 床に散らばる紙の音が、やけに大きく響く。「そんな……」 声にならない。 ついさっきまで、その台本を握っていた。 この作品に戻るために、どれほどの時間を費やしただろう。 事故に遭った。 眠り続けた。 身体も心も思うようにならなかった。 それでも、もう一度だけカメラの前に立ちたかった。 自分はまだ女優だと証明したかった。 そして何より——。 優と同じ場所に立ちたかった。 やっと戻ってきた場所だった。 それなのに。 また奪われる。 胸の奥が、じわりと締めつけられた。「理由は……やっぱり、私ですか?」 その問いには、ひかる自身が一番恐れていた答えが隠れていた。 自分がいるから。 自分が事故に遭ったから。 自分が戻ってきたから。 また誰かに迷惑をかけてしまったのではないか。 マネージャーは即座に首を振る。「違う。これは明らかに誰かが仕組んでる。スポンサーへの圧力、妙に揃った報道……偶然じゃない」 その瞬間、ひかるの脳裏に浮かんだのは、一人の男の名だった。 黒川彰人。 そして……雪代沙羅。 胸の奥が、ざわつく。 嫌な確信が、少しずつ形になっていく。 黒川ならできる。 沙羅なら、それを望む。 そして二人が手を組んでいるのなら——。「それと……もう一つ」 マネージャーの声が低くなる。「あなたの身に、危険が迫っている可能性があるって。藤崎さんからも、十分注意するようにって連絡が来てる」 血の気が引いた。 ドラマが中止になったことよりも、その言葉のほうが恐ろしかった。 危険。 その一言が、ひか
その日、私は掃除をしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。朝から冷たい雨が降っていた。窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。「寒かったでしょ」そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。ソファの上には、
朝、キッチンから聞こえてきたのは、見知らぬ鼻歌だった。ダイニングに入ると、相沢玲奈がエプロン姿で立っていた。手際よくフライパンを振り、まるで何年もここに住んでいるかのように。「おはようございます」私に向けられた笑顔は、丁寧で、冷たい。「俊哉さん、朝はトースト派なんですよね?ひかるさん、知ってました?」私は答えられなかった。そんなこと、聞かれたこともなかったから。俊哉は新聞を読みながら、何事もなかったように言う。「ひかる、邪魔」「そこ立ってると暗い」暗い。存在そのものが、邪魔だと言われているようだった。テーブルの上には、私の席はなかった。「今日から、生活費は管理し直
夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きな
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。







